先生vs.コロナ~終戦Xデーまであと★日~

東京の私学の先生がコロナ禍に置かれた教育現場でなんとなく奮闘する物語です。

先生vs.コロナ~終戦Xデーまであと★日-44~

みなさん、こんにちは。

さて、明日から勤務校ではいよいよ生徒が登校することになります。

分散登校ですし、明日は一学年だけですが、それでもようやく生徒が学校に戻ってきます。

そのような中、私はこの2か月、「学校の存在意義」についてずっと考えてきました。そして、この多感な時期に何か月も自粛生活を余儀なくされた若者は何を思って登校してくるのか?本当に悩ましいです。「学校だからできること」は一体何なのか?そして自宅でもできることは学校で行う必要があるのか?私は一教育者として正直答えが出ていません。否、実は答えが出ています。学校に通学させることは目的ではありません。学校に通学させて生徒たちの何を育むのか、つまりきちんと学校のvisionを示さないと、これから間違いなく「学校」の存在意義は薄れていってしまいます。

私は、中高時代無遅刻無欠席の皆勤人間でした。小学校時代も無遅刻でしたが、一時期入院したことがあり皆勤はできませんでしたが、入院を除けば皆勤、そしていまの職場に勤めてからも冠婚葬祭以外で休んだことはゼロ(振休の消化などで休んだことはありますが)、一度だけおそらくインフルエンザで39度近く熱が上がり、周囲の人が見かねて6時間目終わりに強制帰宅させられたことはありますが、いわゆる休んで仕事に穴をあけたことはない人間でした。そして、ある意味それが自分の誇りにもなっていました。

ただ、この数年いろいろとあり、何が大切なのか、つまり最上位の人生の目的を考えるようになり、それからは休むことはなくても、早めに仕事から帰ったり、やらないことをきちんと決めて、この数年は非常に多くの自分の時間を持てるようになりました。それでも、勤務校でも休んでいないランキングトップ3には常に入っているそうですが(笑)

そんな学校大好き・働くのが大好き人間の私が「学校の存在意義」についていまだに悩み続けています。感染のリスク、つまりは命の危険を冒してまで生徒たちを通学させる意味とは?またその生徒たちと対峙する教職員の命の危険、また生徒や教職員の家族の命の危険…確かに考え出したら何もできないのかもしれません。そして、だからと言って私は全く学校に通学する必要がないなどと言うつもりもありません。

ただ、生徒と教職員を学校に来させるのであれば、それ相応の意味がないと私は学校として機能しなくなると思います。きっと6月くらいから、「何のために学校に行くの?」という声がさらに聞こえてくるような気がしています。説明責任のためだけの授業はいりません。また、部活動再開についてもさまざまな意見が出ていて、たとえば野球については夏の甲子園は中止になったものの、地方独自の大会を開催する方向でいます。その中で、福岡県が地方独自の大会をいち早く実施しないことを表明して、その決定に賛否両論があります。ただ、今は第二波の兆候が見られ、客観的にみると中止せざるを得なかったのではないかととも捉えられます。私は中高バリバリの運動部でした。自分だったら、インターハイ夏の甲子園も中止になったら、どう思うのか…きっと計り知れない悲しみはあるでしょう。東京都も現在インターハイの代替試合は?、野球の独自大会は今のところ開催予定です。でも、野球の大会は7月上旬から、ただ部活動の再開は、現時点で都立高校は6月3週目を目途にしていて、ある意味ギリギリの状況です。ただ、そのような中、とある病院でクラスターが発生?という情報も出てきています。ここでも私は考えています。「部活動とはいったい何か?」学校において部活動は素晴らしい教育活動の一環だと考えています。でも、あくまで教育課程外の活動であり、優先されるべきは授業のはずです。そのような中、もし授業よりも部活動が優先されるのであれば、自ら学校の存在を否定してしまうことになるのではないでしょうか…。

今日は、あえて頭にあることをそのまま吐き出してみました。ここまで吐き出してみてハッキリしたこと、それは決して私たち一人一人がこの状況下で「思考停止」に陥らないことです。どのような状況になったとしても常にその物事の本質を見極めるために、思考をめぐらせいま自分にできることを精一杯やることだと思います。

「思考停止」をして学校に来るのも学校に来ないのも、部活をするのも部活をしないのも簡単です。ただ、「思考」をして自らの意思で選択・決定して歩んでいけば同じことをしたとしても自分自身の糧になると考えます。

さて、いよいよ学校が再開されます。もし思考を停止していた人がいたのであれば、学校再開と同時に思考も再開させ、自走していきましょう。