先生vs.コロナ~終戦Xデーまであと★日~

東京の私学の先生がコロナ禍に置かれた教育現場でなんとなく奮闘する物語です。

先生vs.コロナ~終戦Xデーまであと★日-280~

みなさん、おはようございます。

最近通勤の途中にこのブログと読書、また帰宅時にも読書と12月以降本当に本に触れる時間ができてゆとりがあることを実感しています。

その中でたくさんの本に触れる中で、自分の中でひっかかるワードがあるんですよね。

その中で最近気になったのが、「感謝」と「気配と気配り」です。

まずは「感謝」から…なんかとにかくこの言葉がやたらめったら情報として入ってきます。そういう系統の本が多いのかもしれませんが、それでもこの言葉が自分の中にどんどん入ってきます。

私自身、若い頃はある意味この感謝を忘れて周囲の人に対して不快な思いをさせていたことも多々あったと思います。

ただ、この数年自分のあり方を突き詰めていくと…どんどん余計なものが削ぎ落とされて、より洗練されていき、ものすごくシンプルな生き方になりました。そうすると不思議なもので周囲の人や自分自身に対しての感謝という言葉が残り、良い意味で周囲の雑音などが消えていったんですね。

なんというか悟りをひらくつもりはありませんが、どんどんそういう境地に至るんですよね。だから、若い頃にはどうしても他人と比較したり、また愚痴や悪口を言ってしまったこともありますが、いまはそういう感情もわかずに、今ここにいることに感謝しようという気持ちが先行して、自立と自律をして生活ができています。

ただし、私自身が山にこもって悟りをひらくわけではないので、そういった時に自分に刺さった言葉が「気配と気配り」です。

人は周囲の方々の気配を感じないと気配りすることなんてできないですし、気配りできない人が気配を感じることなんでできません。

若い頃の私はある意味で周囲のことが気になっていた分、ある意味過剰に気配を感じようとして、過剰に気配りしていた気がします。

もちろん、どんどんとシンプルな生活となり、ある意味周囲の方々との関わり方も変化しました。

ただ、人はひとりでは生きていくことはできません。そういった中で、本当に必要な気配りをする、そのために周囲の気配をきちんと感じることができる、そうありたいなぁと改めて思いました。

感謝を根底にしつつ、周囲に適度な気配りをできるように気配を感じる人間でありたい…最近読書の時間が増えてこんなふうに思う今日この頃です。